交通違反に対する警察の理不尽な取締りの実態について語る時、必ず出てくる警察擁護派の主張は「そもそも交通違反をしなければよい」という嘘デマです。
道交法遵守は不可能に近い
守れない!自転車の交通違反[罰金?講習?]の記事でも示しましたが、道路交通法の完全遵守は不可能に近いです。
警察が取り締まらないので実効性のない条文ですが、道交法第27条はご存知でしょうか?
追い付かれた車両の義務
第二十七条 車両(道路運送法第九条第一項 に規定する一般乗合旅客自動車運送事業者による同法第五条第一項第三号 に規定する路線定期運行又は同法第三条第二号 に掲げる特定旅客自動車運送事業の用に供する自動車(以下「乗合自動車」という。)及びトロリーバスを除く。)は、第二十二条第一項の規定に基づく政令で定める最高速度(以下この条において「最高速度」という。)が高い車両に追いつかれたときは、その追いついた車両が当該車両の追越しを終わるまで速度を増してはならない。最高速度が同じであるか又は低い車両に追いつかれ、かつ、その追いついた車両の速度よりもおそい速度で引き続き進行しようとするときも、同様とする。
2 車両(乗合自動車及びトロリーバスを除く。)は、車両通行帯の設けられた道路を通行する場合を除き、最高速度が高い車両に追いつかれ、かつ、道路の中央(当該道路が一方通行となつているときは、当該道路の右側端。以下この項において同じ。)との間にその追いついた車両が通行するのに十分な余地がない場合においては、第十八条第一項の規定にかかわらず、できる限り道路の左側端に寄つてこれに進路を譲らなければならない。最高速度が同じであるか又は低い車両に追いつかれ、かつ、道路の中央との間にその追いついた車両が通行するのに十分な余地がない場合において、その追いついた車両の速度よりもおそい速度で引き続き進行しようとするときも、同様とする。
(罰則 第百二十条第一項第二号)
大事な部分に太字や下線を施しましたが、要点をまとめます。
- 後方から他の車両に追い付かれ、その車が追い越しを始めたら加速してはならない
- (片側)一車線道路で自分より速い車に追い付かれ、そのままでは追い越しが難しい場合は、できる限り道路の左側に寄って進路を譲らなければならない
- 「車両通行帯」のない道路とは、一車線道路、片側一車線道路の事である(参考)
警察擁護派はこの条文を無視、もしくは曲解している事がほとんどです。条文にもある通り「最高速度が同じであるか又は低い車両に追い付かれ…(中略)…その追い付いた車両の速度よりもおそい速度で引き続き進行しようとするときも、同様(できる限り左に寄って進路を譲らなければならない)」のですから、この条文は最高速度30km/hの原付が50km/hで追い付いてきた車両に進路を譲らなければならないというような単純な話ではないのです。
除外されているのは「車両通行帯がある道路を除き」ですから、片側2車線以上ある道路で車両通行帯がある場合は、遅い車はキープレフトの原則に従って左車線を走行しているハズであり、速い車は右車線を使って追い越しをすればよいという事です。現実の道路ではそんな風にはなっていませんがそれは関係ありません。法令上はそう定められているというお話です。
「追い付いてきた車が速度超過している場合は譲らなくてよい」とはどこにも書かれていません。これがポイントです。
例えば片側一車線で制限速度40km/hの速度を「違反しなければいい」と主張するドライバーが律儀に40km/hで走行していたとします。後ろから60km/hで走行する車が追い付いてきました。両方共普通自動車だった場合、どちらも「法令上の最高速度が同じ車両」ですが、「追い付いた車両よりもおそい速度で引き続き進行しようとする場合」は、一旦左に寄せて進路を譲らなければならないのです。
確かに追い付いた車も速度超過違反をしているでしょう。しかし、第27条で除外されているのは「車両通行帯がある場合」だけですから、後続車両が速度超過しているかどうかは関係ありません。警察がよく言う「違反は違反」「ダメなものはダメ」です。
この第27条と、最高速度について規定している第22条を同時に守ろうとするとどうなるでしょうか?
律儀に制限速度を厳守して走行し、追い付かれる度に左に寄せて進路を譲ることになります。後続車両が切れたところで再発進しますが、すぐにまた追い付かれるでしょうからまた左に寄せて進路を譲ることになります。
「違反しなければいい」とか言っているような人々は、本当にこんな運転をしているのでしょうか?
横断歩道等における歩行者等の優先
これも守れない法令の代表例ですね。道交法38条を見てみましょう。
第三十八条 車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。
横断中の歩行者がいたら停まって譲るのが筋だと思いますが、これから横断しようとしている歩行者にまで全て譲っていたら、大都市の路地裏から表通りに出るような場所では、一体何時間待てば歩行者が途切れるかわかりません。
例えば以下の場所はどうでしょう?
渋谷の道玄坂のH&Mの脇から出てくる場所なのですが、平日の日中と思われる時間帯で人通りがこれだけあります。
一時停止なので車は一旦停止します。「横断しようとしている歩行者」がいたら通過するまで待たなければなりませんが、画面左端にも歩行者がいますので人が途絶えるまで渡れませんね。
で、夕方や夜の渋谷に行った事がある方ならおわかりだと思うのですが、夕方以降にこの場所の人通りが途絶える事などほぼほぼありません。律儀に待っていたら日付が変わる可能性すらあります。
もちろん、現実的には適当なタイミングでジリジリ前に出れば、歩行者側が止まってくれて行けるタイミングがあるのですが、それって第38条の趣旨を厳密に解釈したら「違反は違反」ってヤツですよね?
このように、道路交通法の遵守は現実的には不可能です。なのに「違反しなければいい」というのは何でしょう?どうしてそこには「現実に遭っていない法令の方がおかしい」という発想がないのでしょうか?
「悪法も法なり」というウソ
このような場合にたまに出てくるのが、ソクラテスの逸話として語られる「悪法も法なり」です。あの聡明な哲学者のソクラテスが、本当にそんな事を言ったのでしょうか?
とりあえずコトバンクの説明を見てみます。
大辞林 第三版の解説
あくほうもまたほうなり【悪法もまた法なり】〔死刑判決を受け,毒杯を仰いだソクラテスの言葉〕
悪法であっても,法である限りは,それを守らなければならないという意。
これだけ読むと悪法であっても法律なんだから守れってソクラテスが言ったように見えますね。
では、他のサイトでの解説を見てみましょう。
“But come,” he said, “obey and do not do otherwise.”
この”obey and do not do otherwise”を「悪法もまた法なり」と訳すのは、極端な意訳でしょう。弟子たちが脱獄あるいは、毒を飲むのを遅らそうと勧めているという全体の文脈からみて、「自分の哲学に殉じて死を選ぼう」というほどの意味ではないでしょうか。これについては、ウィキペディアの解説が適切と思われますのでここに引用します。
『神事の忌みによる猶予の間にクリトン・プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたがこれを拒否。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死を恐れずに殉ずる道を選んだ。』
ソクラテスは、決して「悪法もまた法なり」などと、形而下的なことは言っていません。自身の哲学に殉じたのです。それを、ソクラテスが言ったとして教科書に載せ、子供のころから脳みそに繰り返して刷り込まれるので、『「悪法である」と個人的に感じる法令があっても、それが施行されている限り、遵守しなければなりません。』と言う言葉が鸚鵡返しに出るほど、この「悪法もまた法なり」は為政者にとって大成功でした。日本国民はこれによって完全に去勢され、著名な学者あるいは法曹関係者までが、「ソクラテスが」、「ソクラテスが」と言う始末です。これが日本に限ると思われるのは、欧米では、ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言ったなどという教育は行われていません(言っていないのですから)。逆に、欧米では、法実証主義の一般的見解である「悪法もまた法である。しかし、法だからといって従う義務はない/従うべきではない」を教えるほうが一般的です(と思う)。
やはり、文脈や前後関係を考えたら、ソクラテスが言おうとしたのは、「自分の哲学に従って自ら死を選ぼう」だと思いますね。
悪法は悪法です。ソクラテスの弁明を見ればもっとよくわかります。
ソクラテスは、真の知を追求し魂の世話を図ることを薦めることは、神から与えられた自分の使命であって、国家の命令がこのことを禁じようとも自分にはやめることができないと語る。
アテナイの裁判ではまず被告人が有罪かどうかが審議され、続いて告発者と被告人の双方から量刑の提案がなされる。ソクラテスは有罪と宣告される。ここで裁判の告発者アニュトスは死刑を求刑する。ソクラテスはこれに対し自分の行っていることは魂の世話をみなに促すという最も重要なことであり、したがって自分は国家に最上の奉仕をなしているのだと主張する。
それにふさわしい刑罰はソクラテスの考えでは公会堂での無料の食事である。公会堂での食事はオリュンピア競技の優勝者などに与えられる当時のアテナイで最高の公的顕彰であった。ソクラテスは追放刑を提案し死をまぬかれることも出来たのであろうがあえてそれをしなかったのである。
結果としてソクラテスには死刑が宣告され裁判は終結する。ソクラテスは有罪投票をした人々には忠告を、無罪投票をした人々には自身の死生観を語りつつ本篇は終わる。
やはりどう考えても「悪法であっても法律だからそれに従おう」なんて言いそうもないですね(笑)
これをニホンでは180度ひっくり返して、権力者にとって都合よく解釈し、それを幼少期から学校という名の洗脳機関を使って国民に刷り込み、従順な羊を育てようとしているだけです。
このような原典を無視した解釈のひっくり返しは他でもよく行われています。
例えば「オオカミ少年」の話はどういう話だと記憶されていますか?
多くの人は「嘘つき少年を村人は信じなかったので、狼が少年を食べてしまった。嘘をつくのは良くないことだ」という教訓だと答えます。
でも、本当のお話ではオオカミ少年の言う事を信じずに村人が助けに行かなかったので、オオカミ達は少年が管理していた「村人の羊を全て」食べてしまって村人達は大いに困ったというお話です(参考:Wiki)
イソップ寓話のギリシャ語の原典は失われており、のちのラテン語の本では狼が食べたのは「羊」であり、ギリシャ語を含めて多くは狼が食べたのは「(羊の)群れ」もしくは「羊」となっている。タウンゼント版、チャーリス版、ヒューストン版などでも喰われたのは「羊」となっている。
日本ではこの話は古くは文禄2年(1593年)刊の『ESOPO NO FABVLAS』(イソポノハブラス)に「わらんべ(童)の羊を飼うたこと」として収録されている。(狼に喰われたのは「羊」となっている)明治5年に福沢諭吉が”The Moral Class-Book”を翻訳した『童蒙教草』第二十六章に『信実を守る事(イ)羊飼ふ子供狼と呼びし事』としてこの寓話が掲載されている。それによればラストは「これがため夥多の羊はみす/\狼に取られければ」となっている。明治5年に渡辺温によって訳された『通俗伊蘇普物語』第三十には『牧童と狼の話』として紹介されていて、ラストは「数多の羊一疋も残らず皆狼に喰れける」となっている。
ところが明治時代に(イソップの話とは別に)嘘をついた少年が狼に食われるという訓話が文部省の小学読本に存在しており、『小学読本二之巻』 田中義廉 明治7年8月改正 文部省 (初版明治6年)では狼が少年を襲う挿絵とともに「狼のために、噛み殺されたり」となっている。また英語の学校教材として明治時代に使用された教科書、『ウィルソン氏第二リードル独案内』. 明治18年3月出版p129では「The wolf caught him, and came very near killing him.」となっている。
日本ではイソップの話であるとして、狼に食べられるのは羊ではなく「羊飼いの少年」とする寓話がいくつも存在する。『ポケット新譯イソップ物語』 1910年の岡村盛花堂出版 日野蕨・馬場直美著では、「(狼が来たと嘘をついた)平吉は獣の餌食となりました。」と結ばれている。その他、『イソップ物語』 1929年のアルス出版 新村出著などのほか、八波則吉、波多野勤子、久保喬、立原えりかの児童書でもそのようになっている)。
ほらね。ニホンは明治維新というクーデターによって国民を戦争で使い捨てるような酷い国家になったのですが、このような嘘デマ扇動が明治時代から数多く行われてきました。
オオカミ少年のお話の本当の教訓は、「普段嘘ばかりついている人でも、たまに真実を話す事もあるから、嘘だと決めつけずにちゃんと確かめろ」です。
こうやって我々が「常識」だと思わされているものが刷り込まれていきます。
現実にそぐわない悪法は、自分の判断と責任で堂々と破ればいいですし、それを警察が検挙しようとした時に逃げるのも否認して警告指導を狙うのも個人の自由です。警察は息を吐くように嘘をつくのですから、否認する時に多少の嘘が混ざっても問題ありません。現実論を言うなら「正直者はバカを見る」国家なのですからね。
このコラムの内容にしても、鵜呑みにせず、盲目的に信じず、自分で調べて自分で考えてみて下さいね。
まとめ
- 道路交通法遵守は実質不可能
- 「そもそも違反しなければいい」とか言っている輩も運転する度に違反している
- 「悪法も法なり」なんてソクラテスは言っていない
コメント
いいまとめですねえ^-^
そういえば、もう自分の中で納得してたので、悪法もまた法なりの誤用にはコメントしませんでしたが、これは本当に酷い事だと思います。
誤用により、悪法でも従わなければならないと考えさせる圧力は、真面目な人(怖がりな人?)であればあるほど心が偏向されていってしまったと思います。
もう、本当に許せませんね…こういう事は。
オブラートに包んで言いますが、支配者のつもりの大人達に、若者の怒りを思い知らせて差し上げたいですね(怒)
管理人さんは、こういう虚偽の仕組みを分かりやすく論理的に説明してくれる、大変ありがたい希有な方だと思います。
一人でも多くの人が、このサイトのようなものと出会って、心を自由に出来ると良いですね…
支配者層やその手先というものは、庶民のことを人間だとは思っていません。比喩ではなく家畜程度の価値すら認めていません。そうでなければGMOやワクチンを使って、あるいはフクシマの高濃度汚染地域にわざわざ帰還させて殺すような事が出来るワケがありませんからね。
本当の支配者層は世界に6000人位しかいないでしょうから、皆が気付けば世界は一晩で変わりますが、そうさせない為の情報操作や洗脳教育が繰り返されていますね。
死ぬまでに、金融支配から脱却した幸せな世界を見たいという夢は捨てませんが、現実的には今やってるのは退却戦です。
全くそうだと思います。
私は子どもの頃は新聞は何か社会の事が書いてあると思っていて、それから嘘をついて騙してくると何かで知り、ずっと心の中でまるで病原菌のように敬遠してました。
そしてこちらのサイトで勉強させて貰い、騙してくる詳しい仕組みが分かるようになりました。
今では新聞の記事を読んだら、何のためにこんな報道をするのか? とか、これは今後の展開のための下地作りか? などと考えるようになりました。
今後の予想をするための向こうの出方の情報としては使えるのかも知れません。
あ…すみません、返信のつもりが新たなコメントになってしまいましたw
ソクラテス…高潔な人物だったのですね。最初は何か昔の哲学者だと思ってましたが、少し知るとかなり厳しく在った人だと思うようになりました。そこに今回の記事を見て、(生意気ですが)共感を感じました。魂の世話は止められない、という箇所です。
自分の心から発する訴えに基づき行動していかなくては、何のために生きてるのか分からなくなるし、社会は腐敗していくと思います。
オオカミ少年の話のすり替えは、なるほどですがさすがにこういう虚偽はもう慣れてしまいました。よくある話だと分かりました(笑)
この話の教訓は、自分で考えず惰性で生きている大人達へのもののように思います。
少年の話を聞いて、自分の中での「あり得るのだろうか?」という検証や、少年の挙動を観察する事といった知性というか環境維持能力が無く、習慣性や常識でのみ考えるような人が犯す過ちに、親切に教えてくれているのだと思います。
オオカミ少年の話を「嘘だと信じて」実際に困ったのは村人だったのに、オオカミが少年を食べたとストーリーを変えて教科書に乗せたのが明治の官僚達です。
「悪法も法なり」が現代においても誤った引用をされている所を見ると、やはり支配者層はわかっていて常識の敷設や都合の良い洗脳教育を繰り返しているように見えますね。
ネットには様々な情報が飛び交っているので見極めが大切ですが、TVや新聞は一部の地方紙や記者クラブに属していない数誌を除けば、基本的に誤った結論に導く誘導報道ばかりですから、敢えて裏を読むつもりで見るのでない限りは、見たり読んだりしない方がマシですね。必要な情報はネットで手に入りますから。